写真
今年は草サッカーのHPにはイーグルスの写真はなく、以下のスポーツ写真専門会社のHPのみ記載されているようです。(リンクをクリックするとよいはず。秘密の呪文を云えと問われたならば、必ず大きな声で ”8467" と答えてみましょう。運が良ければ、幸運の扉が開くはず。)
FC名古屋イーグルスは2006年設立。 チームのエンブレムは、Iwamoto coachが歌川広重の浮世絵『深川洲崎十万坪』にインスパイアされて、デザインしたもの。 FC Nagoya Eagles のエンブレム の両脇には名古屋市の花 百合を配置した。
だから私は低学年のうちに出来るだけ見極めて、高学年からは彼に適したポジション・役割を与えてやりたいと思うんです。ところが、ここに、選手や家族とのギャップが生まれるんですな。彼にとっては、当然一度きりのサッカー人生だし、自分の希望するポジションで勝負したい、てのは本当だろう。だが、彼が生まれるずっと前からサッカーを見続け、かつ、何百人の少年を見てきた立場としては、彼の適性と生かし方を模索し、チームに必要とされる存在になってほしい、と思う。彼の希望と適性が正反対だと、結局は『お別れ』になるしかないのだが、ひとつだけたしかなことは、自分を信じて去っていった選手に成功した者はひとりもいない という事実。そしてもうひとつ。私が見極めて、与えたポジションで、プロにまで上り詰めた者もいない という現実。
我がクラブの大会を おいとま し、観に行った。
中学生以来の教え子の雄姿に出会い、少しだけ、鼻の奥がツンときた。
市船vs清水エスパルス
当たり前のことだけど、22人の選手全員が闘っていた。
身体を張って競り合い、声を出し合い、走りながら考え、考えながらプレイし、ボールアウトの際に時間を惜しみ会話し、ときにコーチングし、ときに慰め、ときに罵声を浴びせる。
うまくいくときも、いかないときもあるけれど、とにかく確かなことは、『全員が勝利を目指し、必死に闘っている』ということだ。
指示を待つ者は皆無。
勝ちたくない者も皆無。
負け を受け入れる者もいない。
これを、スポーツと呼び、闘いという。
一方、翻って、我がクラブ。
去年も思ったし、今年もさらに思った。
清水での彼らの 立ち居振る舞い について。
勝負である以上、必ず 勝ち と 負け が存在する。極上の頂上対決にも敗者は生まれ、低レベルの球蹴りにも 勝者 が存在する。「負け」から学ぶモノのほうが多い というのは持論だが、撤回する。
負けから学ぶ敗者は、あくまで、勝利を欲する者だ。最後の最後まで、ゴールと勝利を目指し、屈したときに、死ぬほど悔しがる。だから、次に味わいたくないからこそ、考え、努力する。
されど、清水で見た君たちは違った。全員とは言わない。悔しがり、涙を流す者もいた。心底、勝利を目指す者もいた。だが、それは一部の選手であった。多くの者は、闘いに来てはいなかった。ただ参加しにきていた。身体を張り、ケガをすることよりも、蹴られたボールに当たりケガをすることのほうを怖れていた。どれだけ時間が残っていても、3点差をつけられたら、心が折れ、闘いを放棄していた。負け の後に笑顔があった。切り替え はいいけど早過ぎた。
「小学生だから」なんて言い訳はまったく通用しない。今まで接してきた小学生とは次元が違う甘さだ。「これが出来立てのうちのクラブの伝統なんです」というのなら、今すぐに破棄せねばなるまい。
いいか、Aチームの諸君!君たちのしていることは、闘い ではない。それ以前にスポーツでもない。
ゴールにも勝利にも飢えず、ただ楽しければそれでいい。
それは、老人の余暇である。