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2010年7月20日火曜日

ライフイズフットボール

 祭りが終わり、日常が戻りつつある。淋しさと安堵。日本と世界のフットボールの未来に少し陽がさしてきた気がしてうれしい。大会が示した手本をほんのわずかでも我がチームにいかすことはできないか?そのことを模索し、格闘することが我々に課せられた命題だろう。
 先日、12リーグ後期の指導者会議があり、有益な話もいくつか聞いた。その中で、以前から漠然と感じていたことを、わかりやすく表現されていたので、ここで披露すると同時に思っていることを述べてみたい。
 「感じるチカラ」を育むべきだ。という表現があった。育めるかどうかはおいといて、うんうんうん、と三度うなずいた。私はフットボールが好きだ。愛している。人生のすべて、といっても過言ではない。どのくらい好きか というと、W杯やEURO、CLやクラブW杯の観戦試合は15を超えるし、その旅行費用を残しておけばレクサスくらいは買えただろう、という愚かさだ(笑)なぜそこまで執着できるのか?おもしろいからだ。おもしろさを感じる、あるいは見抜く才能を持っている、といってもいい。ゲームの中で、ゴールやファインセーブだけにしびれるのではない。ひとつのトラップ、パスやラン、カバーやフェイク、叫び声から笑顔まで、魂を揺さぶるシーンにいくつも出会える。
 家族や知人と観ていると、それらに感嘆しているのは自分ひとりであることに気付く。(そうか、このおもしろさが わからないんだ)1984年、ロス五輪予選で、タイの ピアポン にハットトリックを決められた試合が代表初観戦(TV)だった。あれから四半世紀以上。素質か継続か。今では、若きメディアの浅はかなコメントは鼻にもかけぬ、とひとり悦に入ってる(笑)。
 そして、小学生でも、「感じる」才能を持つ選手がたくさんいるのは、驚きと頼もしさ、豊かな未来を想像できて楽しい。しかし、同時に、明らかに「感じる才能」が欠けている選手が存在しているのも事実だ(しかもずっと大勢)センス という言い方が近いが、先天的なものではなく、見て、感じて、自分に取り込もう、という才だから、少し違うニュアンスだ。こういう選手に、とっておきのメニューやコーチングをレクチャーすると、彼らの瞳の輝きを感じられて幸せだ。が、一方で、それらを持ち合わせていない選手に語りかけていると、まさに「ぬかに釘」(笑)、ポカンと空いている口にパンチを入れたくなってくる(笑)まあ、そんなこんなで夏休み(笑)
 遠征も近く、多忙につき、このコラムをまとめるヒマもないので、途中で失礼いたします。

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