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2012年5月26日土曜日

5年前 名古屋×京都 開幕戦

2008年のこと。その年の開幕戦は、不安だった。グランパスは、ストイコビッチが監督に就任して間もなくだったから。僕はストイコビッチに期待はしていなかった。セルビアのサッカー協会の会長とは言え、監督としての実績は皆無。名選手は必ずしも名監督ではない。

でも、その日のサッカーは、Incredible Spectacle Excitingな内容だった。ベンゲルが名古屋を率いた1995年後半のシーズンのような 印象を受けた。ストイコビッチがピッチにいないのに、チームが機能していた。竹内や阿部がクロスを上げる、ヨンセンをめがけて。マギヌンが仕掛ける。小川が攻撃を後ろからサポートする。不思議なくらい、こぼれ球を名古屋が拾って、次々と選手が攻撃を繰り出す。決定力がある選手がいれば、何点取れたかわからないぐらいの攻撃。

テレビの前で大声を上げて応援した。あっという間に試合は終わった。結果は1-1だったが、結果なんかどうでもいい。去年と選手はそうは変わらない。何が、選手をそうさせたのか? 見ていて楽しいし、やりたいことが判りやすい。全員の意図が統一されている。攻撃をするんだという気持ちがみなぎっていた。

5年後、優勝候補と呼ばれるチームになってきたが、5年前のような「攻撃的に行くぞ。」という気迫が全く感じられない。フツーのチーム。ダルな感じが抜けない。何時負けても不思議でない。もう一度、Spectacleな試合が見てみたい。


2012年5月23日水曜日

メディアの功罪

なんでも鑑定団 が好きでよく見ている。ずいぶん前の放送だが中島先生の言葉にうなずいた。

「骨董市もいいけれど、たまには国立博物館にでも行って、本物を見てください」

そうなんだな。次元もカテゴリーも違うが、私のサッカー人生もまさにそう思う。好きで愛して惚れて憎んだフットボールであるが、瑞穂や豊スタ、国立に横浜に日本平に世界各地…。トップクラスの観戦はそれでも200はないだろうが、今のサッカー観を形成する基にはなってるよね。だから本物でない子どもたちを見ると、短所や伸びしろ、適性とかなんとかを感じて見抜くことができる(と思っている・笑)。
一方で本物を観たことのない少年や(見ても気づかない君や)、知った気になっているご家族に気づいてほしい。フットボールの奥深さと素晴らしさを。そのとき、僕たちの心と価値観がマリアージュする気がするんだ。

骨董市でニセモノつかまされる素人愛好家と比べては気の毒だが、少年はやはりまだ本物ではない。ニセモノではないが『未熟者』ではある。未熟者を見ると、ついつい口を出し手を加えたくなる。けれど、インスタントの本物なんてありえないし、手取り足取りで出来るようになったところで、次の壁でスグ挫折することは目に見えている。
わかっているのに、やってること(指導)はいつまでも変わらないんだ(笑)
ただし、焼き物や掛け軸のニセモノと違い、未熟者の死闘には、ときに激しい感動が潜んでいる(多治見フェスティバル準決勝のようにね)だから指導者はやめられない。

一方で話は変わるが、30年前と比べると、メディアで流されるフットボールの情報はケタ違いに増えた。月に1、2度、教育テレビで放映されたJFLと『三菱ダイヤモンドサッカー』だけが映像の情報源だった。1本2〜3千円したVHSテープで録画し、擦り切れるほど繰り返し見たっけ。今じゃ数十あるチャンネルのどこかでフットボールが流れてる。プレミア最終節やCL決勝さえ、当たり前のようにライブ中継される。その分、観戦者は贅沢になって、じっくりゲームを見続けることに飽きていないか?ラスト15分や、シュートやセーブやラストパスのビッグプレーだけを追い求めてはいないか?結末を重視するあまり、過程を軽視していないか?

ゴールシーンをいくら見たところで、それに至る積み上げの凄さに気づかなければ、真のゴールの感動に辿り着けないのに。

ここんとこ君たちのマズいゲームを見続けたから、お口直しに『本物』を観てきますね(笑)家庭を軽視して(笑)