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2015年3月13日金曜日

選手へのリスペクト

この国でフットボールがメジャースポーツとなり、いまではJ3なるカテゴリーまで生まれて、フットボールを見ない日がない という昨今、そろそろ見守るサポーターにも『常識』と『マナー』を求めてもよさそうだ。

ゴール後の歓喜の表現について。

クライフがその昔語った。

『対戦する両チームにミスがなければ、スコアは永遠に 0−0 だ』

ジミー・グリーブス(だったかな?) はこう言った。

『ゴールは、フットボールにおける通貨である。それなくして、ゲームは破産してしまう』

ボールを扱う団体競技で、サッカーほどスコアレスの確立が高いスポーツはないだろう。 基本的に、サッカーはゴールが生まれないようにされているスポーツなのである。
なのに時折、プレミアやセリエAでも、 8−0 や 6−0 なんてスコアが生まれるときもある。
そういうときには、両チームの選手やスタッフのしぐさや表情、いわゆる 立ち居振る舞い を見るのが好きなんだ。
同じ意味で、プロではありえないような、初歩的なミスでゴールが生まれるときもある。 そんなときはTVカメラは決まって、そのミスの「張本人」をこれでもか、と映し出している。映される本人は気の毒だが、まわりの人間の振る舞いに心打たれる。チームメイトはもちろんのこと、相手選手や試合後は相手の監督・コーチまで、「彼」を気遣い、露骨に喜ぶ者など一人もいない。背中に手をやったり、肩を抱いたり、ハグをするものまでいる。

そこには戦う敵、という以前に同じ競技をする仲間である、というリスペクトがあるからだ。


一方で、少年サッカーは当たり前だが子どもがやるスポーツだ。 子どもだから当然未熟だし、へたくそな子はもちろん、上手な子でさえ初歩的なミスをすることはままある。
たとえばゴールキーパーのそれはわかりやすい。トンネル や ばんざい などは、サッカーは知らずとも、野球は知った気になっている家族からすれば、それこそ鬼の首をとったように、あげつらえる。 決定的なシュートミスやパスミス、クリアがオウンゴールになったシーンなんかもそうだろう。


少し前のあるゲームのゴールシーンの後のことだ。たまたま、第4審判としてピッチサイドでみていた。
高学年のわりには、ずいぶん初歩的なミスでゴールが生まれた。 サッカーだから、少年だから、そんなことはあるさ。
対戦していた選手からしたら、つい喜びが爆発してしまう。それもいいさ。勝ち越しのゴールだったし。子どもらしいし。 
ただ理解できないのは、得点した側のご父兄の 立ち居振る舞い だ。 大声をあげて飛び上がり、ガッツポーズを繰り返す。
自分らの子どもたちが、きれいにボールをまわし、美しいゴールをあげる。そこに歓喜が生まれる。それは自然なことだ。
だが、自分たちが成し遂げたわけでもなんでもない、相手のミステイクに万歳をくりかえす。バカじゃないかと思う。いや、完全に馬鹿だ。
他人の心を思いやれない、哀しい大人だ。 なぜそんなことができるのか。自分の子と同じ競技をがんばっている「仲間」への、リスペクトの精神がまるでないからだ。

やってしまった張本人の心の傷が癒えるのに何十年かかるだろう。
ずうずうしいふりをしているが、実は繊細な私は、高3のときの決定的ミスをいまだに忘れられないんだ。

だからさ、大人は大人らしく、大人の振る舞いをしよう。 いつ、自分の子が「彼」になるのかもしれないのだから。





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