(3月下書き のちに書き足し)
ずいぶん昔、静岡のベテラン指導者に聞いたことがある。
選抜やトレセンという制度がなかった昔は、弱小のクラブにスーパーな選手がいてもその存在を協会に知られることなく、中学からはサッカーをやめてしまったり、別のスポーツに取り組んだり といったことがあったんだと。
そういった、地域や日本の『損失』を防ぐため、今のトレセン制度の基となるものが発足した。おかげかどうか、確かにこの国のサッカーは飛躍的に発展してきたし、W杯で躍進を期待できる日がくることなど若いころには夢にも思わなかった。
一方で今のトレセンに対するサッカー界全体の価値観には違和感を感じざるを得ない。
トレセンスタッフは、企業の面接官のように「上から目線」で、(みてやるから、いいヤツ送れ)といわんばかりの態度だし。
選手は選手で、「センター試験」や「有名校受験」のようにとらえ、合格すればバラ色の未来がひらけているかのような錯覚をし、必死に「肩書」をほしがる。
有名校や一流企業に入ったところで、ほんとうに大事なのはそこからなのに。
オシムの言葉で 「サッカー学校を卒業すれば、いい人生が送れるに違いない」 というのがある。私の大好きな言葉だ。
部活やクラブ、スクールでがんばり、サッカーの本質を学び、技術を上げ、仲間と力を合わせ成し遂げる喜びを知り、努力だけではどうにもならない現実にうちのめされ、うちひしがれてもまた立ち上がる。別にサッカーに限った話じゃないが、スポーツには人生の縮図といえる物語が存在する。その物語の主人公はもちろん選手ひとり一人であり、僕らは彼らの「仲間」でいたい。
小さな大会や公式戦に参加して勝ったり負けたりを繰り返し、喜びや挫折を味わう。そんな経験は物語の大事なクライマックスのひとつだ。
先日の清水草サッカーがチームに残してくれたものは彼らの小学校時代の思い出でもっとも印象深い出来事だったと信じたい。
それらなくしてトレセンの合格のためだけに活動する。それは、学校とはいわず、予備校のようだ。
私はサッカー学校の教師でいたい。けれども、予備校の講師になるつもりはない。
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