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2011年8月21日日曜日

現状

全国の強豪校とJのユース(高校年代)が集い、ここ愛知でフェスティバルが行われた。

我がクラブの大会を おいとま し、観に行った。

中学生以来の教え子の雄姿に出会い、少しだけ、鼻の奥がツンときた。

市船vs清水エスパルス
当たり前のことだけど、22人の選手全員が闘っていた。

身体を張って競り合い、声を出し合い、走りながら考え、考えながらプレイし、ボールアウトの際に時間を惜しみ会話し、ときにコーチングし、ときに慰め、ときに罵声を浴びせる。

うまくいくときも、いかないときもあるけれど、とにかく確かなことは、『全員が勝利を目指し、必死に闘っている』ということだ。

指示を待つ者は皆無。
勝ちたくない者も皆無。
負け を受け入れる者もいない。

これを、スポーツと呼び、闘いという。

一方、翻って、我がクラブ。

去年も思ったし、今年もさらに思った。

清水での彼らの 立ち居振る舞い について。

勝負である以上、必ず 勝ち と 負け が存在する。極上の頂上対決にも敗者は生まれ、低レベルの球蹴りにも 勝者 が存在する。「負け」から学ぶモノのほうが多い というのは持論だが、撤回する。

負けから学ぶ敗者は、あくまで、勝利を欲する者だ。最後の最後まで、ゴールと勝利を目指し、屈したときに、死ぬほど悔しがる。だから、次に味わいたくないからこそ、考え、努力する。

されど、清水で見た君たちは違った。全員とは言わない。悔しがり、涙を流す者もいた。心底、勝利を目指す者もいた。だが、それは一部の選手であった。多くの者は、闘いに来てはいなかった。ただ参加しにきていた。身体を張り、ケガをすることよりも、蹴られたボールに当たりケガをすることのほうを怖れていた。どれだけ時間が残っていても、3点差をつけられたら、心が折れ、闘いを放棄していた。負け の後に笑顔があった。切り替え はいいけど早過ぎた。

「小学生だから」なんて言い訳はまったく通用しない。今まで接してきた小学生とは次元が違う甘さだ。「これが出来立てのうちのクラブの伝統なんです」というのなら、今すぐに破棄せねばなるまい。

いいか、Aチームの諸君!君たちのしていることは、闘い ではない。それ以前にスポーツでもない。

ゴールにも勝利にも飢えず、ただ楽しければそれでいい。

それは、老人の余暇である。

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